Slow Luv op.1 -5-

 

 暗い舞台裏、悦嗣はインターミッションが終わるのを待っていた。
 借り物の燕尾服は、着慣れないせいか気恥ずかしい。今日はノータイ。スタンドカラーのシャツはスタッドを一つだけ使い、銀色の十字架がついたペンダントをつけろと指示された。ペンダントは演奏の邪魔になるからと断った。開いた胸元が気になるので、もう一つスタッドを付けさせてくれと言ってみたが、却下された。
 あと五分。
 悦嗣は楽譜を小脇に挟み、両手を見た。
「エツ、手、貸してみ」
 いつの間にか英介が、目の前に立っていた。
 言われた通り手を差し出すと、彼は自分の両手で包み込むように握りしめた。その手は温かく、やさしい感触がする。
「やっぱり冷たい。エツは緊張すると手が冷たくなるから」
「そうだっけ?」
 ここが暗くてよかった…と悦嗣は思った。きっと今、赤面しているに違いない。
「でもそういう時って、出来がいいんだよな。エツは緊張したら開き直って、肩の力が抜けるから。今日はいい演奏が出来る」
「呪文みたいだな、落ち着いてきた」
「よかった、いいデビューになるよ」
「何言ってやがる。こんなことは、これっきりだ」
「みんなが放っておかないさ」
「本人にやる気がなきゃ、無意味だろ?」
「やる気になるよ」
 英介は自信たっぷりの口ぶりでそう言うと、手を離した。
「なるもんか」
 本ベルが鳴った。
 英介は袖に向った。チェロ、ヴィオラ、第二、第一ヴァイオリン、ピアノの順で出る。
 悦嗣の前にはさく也。彼は悦嗣を一瞥する。それはいつも通りの表情のない目だったが、かえってそれが英介の手の温もり同様、悦嗣を落ち着かせる。
 この第一ヴァイオリンが、きっと自分を引っ張ってくれる。
「GO」のサインが出て、英介が一歩ステージに踏み出す。
 悦嗣は拳を、グッと握った。




 ヨハネス・ブラームス作 ピアノ五重奏曲ヘ短調作品34
 第一楽章 アレグロ・ノン・トロッポ ヘ短調4分の4拍子 ソナタ形式
 第二楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージオ 変イ長調 4分の3拍子 三部形式
 第三楽章 スケルツオ アレグロ―トリオ ハ短調 8分の6拍子
 第四楽章 ポコ・ソフテヌート―アレグロ・ノン・トロッポ―テンポT(プリモ)―
        プレスト・ノン・トロッポ ヘ短調  8分の6拍子 序奏付きロンド形式
 ブラームスが三十一才の時に完成させた、唯一のピアノ五重奏曲。情熱的でありながらメランコリック、しなやかな情感や諦念といった、後年の作風の片鱗を垣間見せる。この曲は一八六八年にパリで初演され、プロイセンの王女に捧げられた。数多のピアノ五重奏曲の中でも最高傑作と評される、名曲中の名曲である。
 鍵盤に触れた瞬間、悦嗣はブラームスの作り出した音楽の中に取り込まれた。
 自分の指から生み出された音は、四つの弦に吸い寄せられる。
 それは縒り合され、そして螺旋となり、ステージを巡り、ホールを巡る。
 一瞬のようであり、永遠のようであるこの一曲。ただ、不思議と落ち着いていられた。
 昨日までとは違う、楽屋で感じていたものとも違う。幸せな緊張感――悦嗣のその感覚は、形容するとそういったところかも知れない。
 長く忘れていた『楽』の世界。緊張感さえも魅力的に変容する。
「こんな緊張感なら、永遠に続いてもかまわない」
と思えるほど、悦嗣は『楽』に酔っていた。
 


 
「エツ?」
 立ち上がった悦嗣に、英介はミハイルとの会話を止めて声をかけた。
「ちょっと風にあたってくる。調子に乗って飲み過ぎた」
と答えて、悦嗣は非常口の表示が出ているドアに向った。
 日本での三公演を無事終えての打ち上げが、ホテルのバーを借り切って行われていた。英介以外の三人は、明日の夜便でウィーンに帰ることになっている。
 今回の演奏会が盛況であったことと、滞在最後の夜ということもあって、みんなの酒量も自ずと進んでいた。特に悦嗣には、次々に注ぎ手がやってくる。さすがに悦嗣も『公式の場』での限界に近づいていて、酔い覚ましがそろそろ必要だった。
 非常口を開けると地上に下る非常階段が右手に、バー専用の空中庭園に上る短い階段が左手に伸びている。
 悦嗣は迷わず左に足をかけた。
 演奏がいつ終わり、どうやって楽屋に戻ったか覚えていない。記憶は楽屋のドアを、夏希が蹴破るがごとく開けたところから始まった。
「エツ兄! なんで黙ってたのよ! ひどいじゃない!」
 彼女の声はあまりに大きく、音の世界にいた悦嗣を容赦なく現実に引き戻し、隣室の英介をも引き寄せた。
「エースケさんも、教えてくれたらよかったのに!」
「それじゃあサプライズにならないじゃないか」
 英介が例の最強の笑顔で、夏希をかわしてくれたのはありがたかった。
 その後、次々と知人が訪れ、慌ただしく打ち上げ会場へ移動し、余韻や心地よい疲労感に浸ることは許されなかった。
 やっと一人になれる。人に囲まれるのは嫌いではないが、今はあの時の音を思い出したい気分なのだ。
 五段ほどの階段を上ると、こじんまりと整えられた庭に出た。夜景の邪魔にならないように、常夜灯は地面に直置きにされていた。
 半月が浮んでいる。そのまわりに、薄い雲と高層ビルを従えて。
「風流だなぁ…」
 悦嗣は上着のポケットから煙草を取り出すと、火を点けた。
 ライターの小さな炎に照らされたのは、自分の手。二時間前の感触が、まだ残っている。弾ききったんだな…と、あらためて見直す。
 ゆっくりと煙を吸い込み、紫煙の行方を追って上げた目に人影が映った。
「うわぁ!?」
 思わず声が上がる。
 庭を囲む手すりに身をもたせて地上を見ていた人影は、その声に気づいて振り返った。夜に慣れた目が、中原さく也だと確認した。
「お…おどかすなよ」
 悦嗣は口から落ちた煙草を拾い上げながら言った。
「驚いたのはこっちだ」 
 さく也はまた外に目を戻す。
 悦嗣は隣に立った。
「何してるんだ、こんなところで?」
 大仰に驚いたことの、バツの悪さをごまかすように話し掛けると、
「酔いさまし」
と答えた。
 眼前に都会の夜景が広がる。週末とあってビルの窓の灯りは少ない。それでも地上に下りるにしたがい、灯りの数は増えていく。使い古された『宝石のような』という表現が、やはりぴったりと合う。
「俺も。調子に乗って勧められるまま飲んじまった。さすがにキツイな」
「強そうだ」
「どうかな。でも若い時ほど飲めなくなった」
 さく也がクスクス笑う。
「なんだよ」
「若い時ほどって、まだ若いじゃないか」
「今よりもっと若い頃だよ。それにな、日本じゃ三十過ぎたら、もうおじさん呼ばわりなんだぞ」
 新しい煙草に火を点けて、すぐに消した。ここのところ本数が増えたことは自覚している。さく也はまだ笑っていた。アルコールが入っているせいか、彼は普段になくよく笑った。
「今日、いい演奏だった」
 そしてよく話す。
「自分でもそう思う。出来はともかくとしてな」
「いい出来だったよ」
「そ…そりゃ、どうも」
 酔っているとはいえ、中原さく也に誉められるの悪い気はしない。
 演奏の間中、悦嗣の耳は無意識に第一ヴァイオリンの音を追っていた。一度も臆することなく弾きつづけていられたのは、その音が必ず聴こえていたからだ。
「ファーストのおかげだ。俺はその音に何度も助けられたよ」
 それは素直な気持ちから出た言葉だった。
「その音があると思うから、開き直って弾けたのさ」
 さく也の反応はなかった。少し奇妙な間が空く。
「おまえ、照れてるな?」
 悦嗣はからかい気味に言った。言った自身が照れているのだが。
「酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
 答えたさく也の額を、軽く悦嗣の手が弾いた。笑い声が夜に響く。
 二人は並んで手すりにもたれた。テールランプが流れるアスファルトの川を、見るとはなしに見ていた。
「この話、エースケに無理やり推しつけられた時は腹立ったけど、今は受けてよかったと思ってる。世界レベルの音と一緒に演れたんだからな。この先二度とない機会を与えてもらって、あいつに感謝してる」
「これからだって演れるさ。あんたのピアノは弾きたがってる」
「俺のピアノは、いいとこ学生レベルだ」
「レベルなんて関係ない。聴く奴が決めるんだ、その演奏の価値を。あの拍手、聞いたろう?」
 さく也は悦嗣の方に向き直った。
「あの拍手はクインテットのものだ。アンバランスな演奏にスタンディングオベーションするほど、東京の客は程度低いのか?」
 悦嗣の耳に、割れんばかりの拍手の音が蘇った。フラッシュバックされる自覚のない記憶。ただ拍手の音は鮮明だ。
「少なくとも…俺はまた一緒に弾きたいと思った」
 その言葉は呟きに近かった。
 悦嗣の手が、彼の頭をクシャクシャと撫でた。
「さんきゅ、でも酔っ払いに言われても、真実味に欠ける」
 二人はまた笑った。
 ひとしきりに笑った後、不意にさく也の両腕が悦嗣の首に回される。
 まだ笑みを作ったままの悦嗣の唇に、彼のそれが重なった。閉じられた目元に、月明かりが睫毛で影を作る。
 冷たい唇、熱い舌先。
 突然のことに腕を引き剥がすことも出来ず、悦嗣はただ呆然と立っているだけだった。
 やがて名残惜しげに唇が離れて、ほろ酔いの潤んだ瞳が、呆けた悦嗣を見つめた。
「俺、一人部屋なんだけど」
と言う言葉に、やっと悦嗣は我に戻った。
 酔いはすっかり醒めていた。
「い…いや、俺は…、ごめん、俺、その気は…その、無いんだ」
 しどろもどろに答える。まださく也の唇の感触が残っている。
 彼は一度瞬きして、悦嗣の首に回した腕を外した。
「そうなんだ? てっきり同じだと思ってた。エースケのこと、いつも熱っぽい目で見てるし」
「え、ええ!?」
 さく也は悦嗣から体を離す。
「でも違ったのなら、今のキスは忘れてくれ」
 彼は腕時計を見た。
「そろそろ戻らなきゃな」
 そう言うと、再び呆けて立ち尽くす悦嗣に、おかまいなしに歩き出した。
 悦嗣は無意識に唇を指でなぞって、その後姿を見ていた。
 さく也の姿が短い階段を下り、視界から消える頃になって、ようやく彼の足も前に出た。
 



back  top  next